About the UshizuNiwaka


牛津にわかとは

佐賀にわか発祥の地とされる小城市牛津町

 

 仁〇加という芸能は、江戸時代の半ばより明治時代にかけて盛んに行われた民衆の芸能で、滑稽と風刺、洒落、頓知を身上とした即興の芸能です。仁〇加の起源ははっきりしませんが、享保年間、大阪住吉神社の夏祭りを起源として江戸時代の末期から明治時代の初めにかけて全盛期を迎えた。

 牛津における仁〇加の歴史は明治時代以前のことは明らかではなく、わずかに『野田家日記』に「文政十年(1827)閏六月一日 牛尾山ニ雨乞浮立掛り、内中登ル、にわか迄有リ」とありますが、乙宮社、西宮社などにおける仁〇加上演の記載はありません。

 

 乙宮社への奉納は、今の新宿、本町、中町、立町、西町による5町を挙げての仁〇加の競演でそれぞれ各町ごとに舞台がつくられ、順に町での上演を終えて乙宮社での奉納を最後とし、屋台に太鼓、三味線、鉦の囃子を乗せて町回りしていました。

(小城市のサイトより引用:https://www.city.ogi.lg.jp/main/4917.html

 

佐賀俄(さがにわか)とは

 

 幕末から存在が確認されているが、長らく途絶えていた。はっきりとして記録が残っているのは大正末に煮豆卸業であった佐賀県佐賀市西魚町の田代熊一が一座を編成、各地を巡業した。

 その一座は伊東栄城、三浦キメ、高良ハル、小野善一、石崎卯一を輩出。戦時中は佐賀俄の慰問団が組織され、戦後その慰問団は石崎卯一が中心に「葉がくれ劇団」を組織され中から古賀儀一、古賀梅子が活躍。梅子は儀一と結婚。梅子はのちに筑紫美主子と名乗り、1946年に二丈町温泉センターで興行を打ち以降一座で九州地方を廻った。美主子は2013年(平成25年)に亡くなるまで精力的に活動した。

ほかにも京家桃之助、中村勇、中村福之助、座木文子らが活躍した。

(Wikipediaのサイトより引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%84

 


舞台化粧はこんな感じ・・・

笑いあり、涙あり

台詞はもちろん佐賀弁、地域によって微妙に異なる。「うったおすごと面白かけん、いっぺん見てみんしゃい」